By
tmkenkyu on 2004/1/24 17:00 in 遠野学会 | No Comments
第8回遠野学会が開催されました。
平成16年1月24日 遠野市立図書館視聴覚ホール
今年の発表者の概要をお知らせします。
「遠野学ゼミナール」(総合学習から)
遠野高校教諭 大内国芳さん
総合的な学習の時間を「遠野学」とし、地域学習の場として実践してきた。さらにその発展として「遠野学ゼミナール」を開講し、岩手大、岩手県立大の先生方を講師として教壇に立っていただき、身近な事象や関心の高い問題をテーマにして講義を受けた。その実践が生徒に与えた活力についても触れ、郷土遠野を起点にして世界に目を広げる生徒が育つはずだと、夢を広げた。

「私にとってのグリーンツーリズム」
NPO法人遠野 山・里・暮しネットワーク理事 糠森 隆さん
キーワードを「交流と共鳴と協働」とし、遠野市内の各地に展開しているNPOの諸団体と提携して活動をすすめている。
松崎町光興寺の宮代集落の活動例として、「茅葺きゴミ集積所の建設」、「東洋大の学生を迎えて集落ワーキングの取り組み」についての事例報告があった。
その活動を通して、苦労もあったが、忘れられていた地域共同体の再生が図られることに喜びを見出したと報告した。

「小友の白い鷹」
遠野物語研究所研究員 高柳俊郎さん
遠野の歴史書『阿曽沼興廃記』に、織田信長に献上した「しろ鷹」の記事がある。それを『信長公記』から検証し、さらに鍋倉城築城や、当時、信長に仕えていた津軽南部宮内少輔が南部信直ではなかったのかと推理する。

「遠野における死者の肖像ー供養絵額から遺影写真へ」
遠野民俗の会 (博物館学芸員)前川さおりさん
遠野郷の寺院に死者供養の絵が奉納され掲げられている。幕末から明治期のものが多く、やがて遺影写真や遺影肖像画に代わっていく。その調査から、遠野郷での死後の世界への信仰の様子を解説する。

「遠野の川柳」
柳人 鈴木南水さん
富士製鉄釜石製鉄所に勤務して、田沢風信子に師事して職場の川柳同人となる。以来、「川柳宮城野社」など多数の同人の社員となり、「川柳かまいし吟社」や「遠野川柳会」を創設、また川柳句集『遠野しぐれ』『風の羽音』を出版していることを紹介。
悲しみは風の羽音か黄泉の旅
講評
遠野物語研究所研究主幹 東京学芸大学助教授
石井正己先生
遠野文化の脈々たる流れの中に、今回の発表者の生き生きした活動があると位置づけた。さらに、故後藤総一郎先生が、生涯をかけて精力的に活動した常民大学の運動は、まさにこのような土地の人の生の声で語り合う学習の場ではなかったか、と評価した。さらに、高校生、小中学生の発表もあれば、さらに広がりをみせるのではないかと、期待を込めて要望した。
司会進行
遠野高校教諭 飯塚千夏さん
今年の遠野学会さわやかに司会進行していただき、清新な雰囲気を醸していただきました。
By
tmkenkyu on 2004/1/19 17:02 in 新刊案内 | No Comments

遠野の昔ばなし
佐々木喜善が集めた昔話『聴耳草紙』から動物昔話、『老媼夜譚』から本格昔話と笑い話をとりあげてやさしくまとめた昔ばなし集です。
領布価800円
石井正己監修
佐藤誠輔著
遠野物語研究所発行
By
tmkenkyu on 2004/1/15 17:00 in 短信 | No Comments
遠野文化誌 号外 2004年1月15日発行
発行 『遠野物語』研究所 岩手県遠野市中央通り2の11 編集責任者 高柳俊郎
2004年1月6日 遠野市教育文化振興財団設立30周年記念講演で石井正己先生が講演したものですが皆さんに読んでいただきたく全文をご紹介いたします。
——————————————————————————–
遠野文化の魅力
東京学芸大学 石井正己
昭和49年1月に設立されましたこの財団が創設30年を迎えられたということで、まことにおめでとうございます。また本日は、文化・スポーツ、各部門で教育文化奨励賞を受賞された方々もまことにおめでとうございます。高い席からですが、お祝い申し上げたいと思います。
今日は、30周年の記念の講演ということで、わたくしのような若輩が、高い席からお話申し上げるのも僭越だとは思いますが、この11年ほど遠野市に通いつづけまして、述べ50回ほどのお話を、市民の方々にしてきたのではないかと思います。そういったお付き合いもありますので、この記念講演は断れずにお引き受けした次第です。
その間、わたくしは『遠野物語の誕生』(若草書房)、『図説遠野物語の世界』(河出書房新社)、『遠野の民話と語り部』(三弥井書店)、『柳田国男と『遠野物語』』(三弥井書店)、『遠野物語辞典』(岩田書院)、5冊ほどの本を遠野から世の中に送り出してきました。 一番新しい本の「あとがき」では、「遠野に通い続けて遠野を掘る、遠野を掘れば日本が見えるのだ」、そのようなことを書きました。つまり、歴史をもつ遠野を掘りさげることによって、わたくしは日本の基層文化、そして日本のよいところ、あるいは日本の病、そういったものまでも見えるのではなかとさえ思っているわけです。ですから、この11年、わき目もふらずに遠野に通いつづけて、遠野の方々と共に遠野を掘りさげてきたわけです。
今日の、お話は、特に子どもたちには、少しむずかしかも知れません。ただ一つ、子どもたちが、みなさんが住んでいる遠野というのはとてもいいところなんだ、ということを知っていただければありがたいと思うのです。
1,先人、伊能嘉矩と佐々木喜善
遠野を振り返ってみますときに、その先人として、伊能嘉矩と佐々木喜善という二人の先達があります。
伊能は、人類学の先駆者です。特に台湾研究ですぐれた業績を遺しました。人類学というのは、文字も知らない未開の民族の人たちを研究する、ヨーロッパで起こった学問です。それに対して、佐々木喜善は民俗学の先駆者です。特に昔話で偉大な業績を遺しました。民俗学というのは、人類学が他の民族を研究するのに対して、自らの生活を顧みる、文字に書かれていないさり気ない日常を顧みる学問として、柳田国男が起こしていったものです。そういう人類学、民俗学という二つの領域に於ける先駆者が、この遠野から、いち早く現れてきたわけです。
東北という場所は、いろいろむずかしい問題があると思います。確かに、一方では豊かな縄文遺跡が出てきます。遠野も、山の裾を掘ればいたるところ縄文の遺跡だろうと思います。新田遺跡を始め、実に豊かな生活があったということを、われわれはその遺跡から学ぶことができます。ところがその後、東北の歴史を語ろうとすると、実は、平泉などを除いてしまえば、江戸時代まで歴史資料がないのです。江戸になれば、この南部藩をはじめとするさまざまな古文書が残っていて、その生活、あるいは経済、政治といったものが分かってきます。ということは、つまり考古学から歴史学、その間をつ
なぐ史料というのが、残念ながら東北には非常に少ないのです。
では、東北には歴史がないのか、という問題になります。そのときに大事な学問として立ち現れてきたのが、この人類学、あるいは民俗学という学問だと思います。つまり、文字に書かれていない、そういう伝承の中にも豊かな歴史があるのだ、ということになるわけです。
そうして見たときに、『遠野物語』を始めとするこの遠野の伝承というのは、実は、遠野が、そして東北が、日本の中でも、非常に豊かな歴史をもってきた場所だということを、あらためて教えてくれるわけです。奈良や京都を中心にした中央の歴史観からは見えない、そういう歴史が東北からは、確実に見えてくるわけです。その最先端地域が、わたくしは遠野ではないかと思っているわけです。
ところが、伊能や佐々木の業績が、彼らだけで世の中に出ていったわけではありません。その仕事が素晴らしいということを理解して、世の中に押し出した人物がいます。これが柳田国男です。柳田国男は、伊能の『遠野方言誌』、『台湾文化志』、そういった本を世の中に送り出しました。佐々木喜善の『奥州のザシキワラシの話』、『江刺郡昔話』、『紫波郡昔話』、『老媼夜譚』、これはみんな柳田国男の後押しで世の中に出ていったのです。
そういうなかで、例えば柳田は、伊能の『遠野方言誌』の序文の中で、こんなことを言っています。
「諸君の知る如く」、諸君というのは、遠野の方々です。「先生は東奥遠野のみの恩人では無かつた。日本一国の学者の態度を以て其郷土を研究し、又其郷土愛に立脚して、弘く内外の事相を学ばれた、假令学問は奥遠く、人の生涯はよし短くとも、其志は永く諸君の間に活き、且つ成長することであらう。」つまり、伊能は54歳ぐらいで亡くなりました。だけれども、彼が懐いていた志というのは、遠野の人々の中に生き、そして成長するだろう、伊能が亡くなっても、伊能の志は成長するだろうと、柳田は励ましているわけです。
あるいは佐々木喜善の『聴耳草紙』というい本の序文では、こんなことを言っています。「私は以前『紫波郡昔話集』『老媼夜譚』ができた時にも、常にこの人知れぬ辛苦に同情しつつ」、-辛苦というのは辛さですね-どういう辛さかというと、己を捨てさって、客観的な昔話を書き残す、そういう辛さです。喜善は、小説家になりたかったわけですから、そういう彼にしてみれば、自分を殺さなければ客観的な記録は残せない、そういうことに
なります。そういう「人知れぬ辛苦に同情しつつ、他方では、同君自身の文芸になってしまいはせぬかと警戒する役に廻っていた。もう現在では、その必要はほとんどなかろうと思う。能うべくんば、この採集者に若干の余裕を与えて、これほど骨折って集めて来たものを、先ず自分で味うようにさせたい事である」。骨折って集めるということは、当時の言葉で言えば採集です。味わうようにさせるというのは研究です。自分で採集してきたものを、彼みずから研究させたい、そう柳田は言っているわけです。
ところが、この『聴耳草紙』が出た2年後に佐々木喜善は亡くなってしまいますから、彼には味わう余裕は結局なかったわけです。そして、「それには、単純な共鳴者がここかしこに起こるだけでなく、この人とほぼ同じような態度をもって」、-つまり客観的の記録を残す態度ですね-「将来自分の地方の「むかしむかし」をできるだけ数多く集めてみる人々が、次々に現れて来ることである。」そういっています。
喜善は日本のグリムと、そう金田一京助が呼んだといっていますけれども、日本で一番早く昔話の価値を見出した人です。彼のような態度を持って集める人が、日本中に現れてきてほしいと、そう柳田は呼びかけているのです。
喜善に倣うかのように、そのあと日本では昔話が次々に発見されていきます。以来、日本の昔話は6万ぐらい集まったでしょうか。実に、この東アジアの端にある列島が、まれに見る昔話の宝庫であるということを気づかせてくれた、その先駆けが喜善だったということになります。
こういった形で、柳田国男は、伊能、佐々木という二人を世の中に押し出したのです。
2,遠野文化
ところが伊能は大正14年に亡くなります。佐々木喜善は昭和8年に亡くなります。それではすぐに遠野の人々はこの二人を見つけたかというと、そんなことはありません。実は、鍋倉山と土渕に二人の顕彰碑が出来たのは昭和57年です。つまり彼らが亡くなってから、はっきり言ってしまえば、50年間、空白があったわけです。50年の空白を経て、遠野の方々が顕彰しようと、彼らの偉大な業績を見出そうという形で、再発見していくのに50年の歳月が必要だったのです。
それから20年が経ちました。その間にどれだけ遠野が、この部分で力を尽くしてきたかということも後で述べたいと思います。
そういう中で、ではこの財団の一つの趣旨でもある、遠野文化、遠野の教育と文化の遠野文化です、遠野文化という言葉がいつ生まれたのかと言いますと、伊能や佐々木の時点ではありません。わたくしが調べる限りでは、昭和21年に「遠野文化協会」というところが出した『遠野文化』という雑誌があります。これは残念ながら2冊しか出ていません。昭和21年7月に一号、12月に二号です。これは後に町長を勤める三浦栄さんが会長をつとめています。彼の『遠野文化』発刊に当たりて、という序文では、こんなことを言っています。「従来、地方などに於いては、文化という見解は、あまりに感覚的な方面や情緒的な方面に偏していたし、都会文化をそのまま地方に移すことなどをもって文化となす見方考え方があったように思われるのである」。従来の文化というのは、一つは感覚的な方面や情緒的な方面に片寄っていた。ある意味で言えば、これは芸術かも知れません。もう一つの問題は、都会の文化を地方に移すことが文化だと、こういった考え方は、今なお根強くあると思います。だけれども、戦後、新しい時代を作るにあたって文化は違うのではないかと三浦さんは言い始めているのです。「今後の地方文化は芸術方面のみの狭小な限度を捨てて、大衆の生活に浸透していく衣食住方面をも包含するものとして考えていきたいのである」。つまり、芸術方面に狭く限るのではなくて、大衆の生活に浸透していく衣食住、まさにさりげない暮らしそのものが文化だとなるわけです。これは民俗学でいえばまさに民俗にあたるわけです。つまり、戦後、遠野文化というものを立ち上げていくにあたって、民俗というのが大事なものとして遠野の人々の前に立ち現れてきたということが分かるのです。つまり、芸術だけではなくて、ごくさり気ない衣食住、生活の基盤そのものこそ文化ではないかという問題だろうと思います。遠野文化の創造と建設、これが戦後、まだ1年経たない時点です。新しい日本を築いていく、そういう創造と建設につながるのだ、そういう抱負があったはずです。単なる郷土という問題にとららわれるのではなくて、新しい時代を地方から作っていく、そういう意気込みがあったはずです。
そうして昭和24年には、釜石線の広軌開通記念、そのあと25年に釜石線全通ということになりますけれども、そのときにPTAの連合会から『遠野』という冊子が出ております。これもとてもいい冊子です。
話を急ぎますので先に行ってしまいますけれども、そして29年が遠野市の誕生になるわけです。ところが、そういった時代、先ほども言いましたように、佐々木喜善や伊能が見直されていたかというと、そんなことはありま
せん。遠野が、そういったものに目を向け始めるのは、1970年代に入ってからだろうと思います。
『遠野物語』が生まれたのは1910年です。『遠野物語』が出来てから60年です。『遠野物語』ということで言えば、昭和8年に、当時、町長であった菊池明八という方が、『遠野物語』朗読会を開いています。実は、『遠野物語』は、柳田が作ったときに、彼は、遠野の人には読まれたくない、遠野の人には一冊も送らないと、そう佐々木喜善に手紙で書いているのです。つまり、柳田が作ってしまった『遠野物語』というのは、遠野の地名、人名、そういったものを克明に書いています。わたくしどもが読むと、ある固有名詞はAさんBさんとしか分かりませんけれども、遠野の方々が読むと、この話はあそこの家のお爺さんの話だと、克明に分かるのです。柳田は『遠野物語』が読まれることは危険だろうと、出たときにそう考えてたようです。
3,『遠野物語』の見直し
ところが、それから23年経って、この朗読会が出来たときに、『遠野物語』は名著になるのです。名著をみんなで読もうという雰囲気が、昭和8年に出来ています。佐々木喜善がまだ生きているときです。ところがそういった気持ちが持続したかというと、そんなことはなくて、70年代、昭和46年に、今、駅前にある『遠野物語』碑が、『遠野物語』刊行60周年の記念として作られます。このあたりから、遠野の人々が『遠野物語』を見直し始めるのです。そうして平成9年、市民の力で、常民大学を中心に『注釈遠野物語』が出来、『遠野物語』を自分たちのものにしていこうということが定着していきます。
もう一つ、ほぼ同じ頃の大きな動きとして、昭和46年、語り部の創始者であった鈴木サツさんが、ラジオで昔話を語り始めます。そうして平成4年に、世界民話博が行われ、語り部が内外に認められていく時代を迎えます。
その間、昭和55年に図書館博物館が出来る。これは日本初の民俗博物館と呼ばれています。昭和59年に伝承園が出来る、61年に昔話村が出来る、平成8年にふるさと村が出来る。そして今、一日市の再開発が進んで城下町資料館が作られたわけです。
そういう中で遠野は同じころ、民話の古里というキャッチフレーズを獲得していきます。内外にこの言葉で知られるようになるのです。ところが民話というのは非常に曖昧な言葉です。『遠野物語』は昔話かというと、そんな
ことはありません。厳密に言うと、『遠野物語』の中の昔話は、終わりの方の山姥の話2話にしか過ぎません。ところが鈴木サツさんは、どうしたかというと、『遠野物語』を昔話の中で覚えて語ってしまったのです。オシラサマ、ザシキワラシ、カッパ淵、綾織に生まれ暮らしたサツさんは、ちゃんとは知らなかった話で、福田八郎さんから学んでいます。そういう『遠野物語』と昔話を結びつける役割を果たしたのが、この広い概念の民話という言葉です。
その結果、どうなったかというと、昔話の中で民話が語られる。昔話の中で『遠野物語』が語られる。「ああ、80年経っても、90年経っても、『遠野物語』は生きているんだ」という構造が出来上がるわけです。
これをどう評価するか。きびしい評価もあります。そこで結びついてきたのが、単なる炉端の語りではなくて、観光と結びついた語りだったわけです。そうして、そんな形で昔話と『遠野物語』の二つが結びついていきます。これは、おそらく現在の遠野の伝承を支える二つの柱だろうと思います。遠野物語研究所では、一方では遠野物語教室を開き、一方で昔話教室を開いて学びを深めています。
遠野には、次々に施設が出来ました。日本中、たくさん施設を作っている所があります。たとえば飛騨の白川郷の合掌造り、ここも世界遺産になって年間何十万単位の人が訪れます。一大観光地です。ところが、白川郷に行っても語り部はいないのです。日本中、建物を建てられる所はたくさんある。ところが、人間が不在なのです。遠野のすぐれたところというのは、わたくしは、施設と共に人間がいる、語り部だけではなくて、遠野の人々がそれを支えてある、これが遠野の最大の魅力ではないかと思うのです。
4,教育文化振興財団の事業
こういった遠野の歴史を振り返りながら、わたくしは、実は、この財団がこの30年間、どのような役割を果たしてきたのかということについては、あまり意識することがありませんでした。これは失敗だったと思いますし、逆に言えば、今日の記念講演をお引き受けすることで、他ならぬわたくし自身が一番学んだことでもあったのです。
この遠野市教育文化振興財団は、まさに教育と文化を振興する、そのものごとを盛んにする財団として設立されています。『広報とおの』の昭和48年の12月号を見ますと、その経緯が出てきます。「教育百年記念財団であ
る教育文化振興財団は、趣旨に賛同する市民のみなさんから基金を募り、そのお金を基金として、市民の教育文化発展の費用にするものです。」などと書かれています。そして、「この記念財団はわたくしたち市民の手で作るものです。市民の中に生まれる財団はあまり例をみません。」と述べています。あまりどころか、ほとんど例を見ないはずです。普通、財団というのは企業が組織するのです。大きな企業が社会貢献として財団を組織し、助成金を出したり表彰したりするわけです。これが日本の論理なのです。ところが遠野では、30年前に市民が自らの手で、自らを表彰しようということを始めていたのだということが分かるわけです。これは驚くべきことだろうと思うのです。実は、遠野の方々が気が付いていないだけで、わたくしは内外に自負していい財団ではないかと思うのです。そうして、こういう財団に促されながら、55年の図書館博物館の開館などもあるのだろうと思うのです。
そうして、この財団の生まれる機縁になった教育百年の記念の特別表彰の中では、高橋重太郎、あるいは工藤祐吉といった人の他に三田憲という人を表彰しています。三田憲というは遠野の人ではなくて花巻の人です。ところが戦前の遠野教育をすすめた方です。郷土教育とか自治学習の訓練で知られるように、自主的創造的人間の形成を目指す教育を行った。これは戦時下の軍国主義の教育で押しつぶされていくことになりますけれども、現在、遠野教育というのが見直され始めています。こういった人に光りを当てたというのも、やはり見識だろうと、わたくしは思います。
こうして出来上がったこの財団が、いったい何をしてきたのか。百年の記念というのは、明治6年、1873年、現大工町の瑞応院に横田村一番小学校が開校した、それ以来百年だったそうです。ですから、そこから数えれば130年ということになるわけです。
つまり、遠野が明治の時代を迎えて、いち早く教育制度を取り入れようとした。そういう意味でも先端地域だったということになるわけです。そうしてそれを百年という単位で見直そうと考え始めた。この財団が、当初、予定していて出来たこと、出来なかったこと、それぞれあろうかと思います。
その中で、わたくしは、とても地味だけれど重要な、こういう表彰の陰に隠れて見えないけれども重要だと思うのはいくつかの刊行物です。一つは伊能嘉矩の『遠野史叢』です。伊能が自分で出した本で読めなかった本を50年ぶりに世の中に送り出すということを、昭和52年に行っています。そして『早池峰山妙泉寺文書』を出しています。これは、早池峰信仰の中心であ
った妙泉寺の宮本家文書です。廃仏毀釈でお寺がなくなっていく中で、文書だけが残る。ところがこれは遠野の始まりを知る上では、とても大事な文書だったわけです。それが昭和36年には出来ていたけれども、なかなか刊行できなかった。これをこの財団の力で、昭和59年に出しています。そして、遠野のみならず岩手県の産業振興に力を尽くした山奈宗真、この伝記を田面木貞夫さんの編著で出しています。これは昭和61年です。こういう形で、非常に基礎的な遠野の教育文化の見直しを行ってきたのです。
そして、今日、みなさんのお手元に配られた『佐々木喜善小伝』を、佐藤誠輔さんが、非常にわかりやすい文章でまとめている。これについて、理事長である菊池啓先生が、その発刊に寄せて、このようなことを述べられています。「これまでにない「佐々木喜善像」をまとめ、後世へ伝えてい行くことは本財団の使命であり、私たち遠野の新しい財産になるものと存じます」。また新しい財産を、遠野は獲得したと思います。
5,喜善没後70年
もう30分の講演の最後にいたしたいと思いますが、途中、ちょっと触れました、今年、2004年は市制をしかれて50周年の記念の年になります。おそらく、本田市長のもと、いろいろな計画が練られて、そういった事業が進だろうと思います。
わたくしの関わりでいうと、博物館で佐々木喜善の企画展が夏に開かれます。昨年、『佐々木喜善全集』の第四巻が出ました。なかなか出ないと不評をいただいていたものですが、この第四巻には、喜善の明治31年から昭和8年まで、30年分の日記が入っています。これはまだ、ほとんど読み解かれていません。
わたくしは、喜善という人は、さまざまな苦労があっったのですが、先ほども言いましたように、日本のグリムと讃えられた。それはドイツでグリム兄弟が童話集を出してから百年後、日本でグリムと同じような仕事をしたからなのです。ところが喜善さんが亡くなってから70年が経ちました。喜善は数え48歳で死んでしまうことになります。むしろ、死後の人生というものがあるなら、死後の70年の人生の方が、彼にとっては長いのです。世の中には、亡くなってから「ああ、すごかった」とみんなから認められる芸術家がいます。わたくしは、おそらく喜善というのは、そういう人ではないのか、ほとんどの人は70年経つと忘れられていきます。ところが喜善という
のは、むしろこれから復活してくるのではないかと、わたくしにはそう思えるのです。
6,遠野の地域力-共生
この話のむすびに当たりまして、この財団が、遠野の先人とか先覚者を知るということに力を注いできたことに、あらためて敬意を表したいと思います。現在、情報化社会といわれて、歴史に立ち帰って考えるということが軽視される時代になっています。だけれども、わたくしどもにとって歴史というのはとても大事なものです。『遠野物語』にしても、昔話にしても、そこには光りがあり闇があり、あるいは笑いがあり悲しみがあります。だけれども、そういったものを遠野は持つことによって、現在を照らし出すことができるのです。場合によっては反省をすることが出来と言ってもいっかも知れません。そういう意味で、遠野という場所は、他の場所にはないすぐれた財産を持っているのです。やはりそれを生かさなければいけないと思うのです。
そういう中で、おそらく地域の力を、仮に地域力というなら、それがとても重要な意味を持つだろうと思います。高度成長という中で日本が捨ててきたもの、そういったものを遠野は残しています。新しくなりつつも古さを残している。それと同時に、そういったものを考える学問の歴史があるのです。今、共生ということが言われます。もしかしたら、遠野からなら本当の共生ということを、日本人が学べるかも知れないとさえ思うのです。
今日の演題は、遠野文化の魅力ということで、魅力までは語れたのかどうか分かりません。遠野の中に住む方々に、あらためて子どもたちを中心に、みなさんが生きている所は、とても素晴らし所だということを知って欲しいという思いがあります。
そして柳田国男がそうだったように、そして戦中から戦後、遠野中学遠野高校で教鞭を取った山下久男という先生がおられましたけれども、山下久男がそうであったように、わたくしも微力ながら、この遠野の魅力を全国に宣伝して、遠野はいい所だよ、ぜひ遠野から新しい時代を作っていく智恵を学んだらどうか、そういうことをお話しつづけたいと考えております。そういう意味で、この財団がこれから40年50年と果たしていくであろう役割というのは、とても大きいと思います。それを支えているのは、先ほども申しましたように、他ならぬ、行政でもなければ企業でもなく、市民一人ひとり
だということです。どうぞ、みなさんの力でこの財団を、わたくしが言うのも僭越ですけれども、ますます育てて立派なものにしていただきたいと思います。
ご静聴、ありがとうございました。 (文責 高柳)